私の「親不孝娘としての役割」をせきららに告白します。この記事を読むことで、あなたがいかに親孝行娘であることがわかり、きっと自分をほめたくなるに違いありません!
わたしから見る父
現在、熟年離婚し一人暮らししている父。
昔は子供達に会いにきてはお小遣いをくれたり、ケーキを買ってきてくれたり、孫好き典型的なおじいちゃんだったのですが、トイプードルを飼いだしてからめっきり来なくなりました。
時々送られてくる愛犬の100%ピンボケ写真と”つぶやきライン”。生存報告だろうと、適当な返信をしてやり過ごしています。
久々に実家に顔を出したら、4年前に額縁入れて飾っておいた子供達の写真が消え、代わりに愛犬のスケッチに変わっていました。
ちなみにその額縁は、なぜか姉の住まいに飾ってありました・・
ある日、「大変だ大変だ!身に覚えのない金額を請求された!」と連絡があり、慌てて飛んでいきました。クレジットカードの請求額が20万。年金暮らしの父にはかなりの高額です。使った覚えもないというので、クレジット購入履歴を調べることにしました。
犬用ベッド、犬用おやつ、犬用歯磨き、犬用シート、甘納豆、那智黒飴、、、
完全に父が購入したであろう品々が履歴にずらり。
“買った覚えはない“ 正確には ”買ったことを忘れた“ でした。その後、クレジットカード利用は控え、現金払いに戻させたのは言うまでもありません。
父の老いとボケに不安を感じる昨今ですが、こんな父も昔は厳格な父だったんです。
亭主関白な父
「亭主関白」
絶対的権限を持って、自分の機嫌で家族を支配する典型的な「亭主関白」の父。
母は父の奴隷で「めし、風呂」で動かされ、
文句のひとつでも言うと「嫌なら出てけ!」の一言。恐怖で支配されていました。母親は家族の帰りを出迎えるのが当たり前だと、共働きも禁止だったそうです。
私がまだ小さいころは川や海に連れて行ってくれたり、毎年家族旅行に連れて行ってくれたり、父の怖さに気づかず過ごしていました。父はわたしのことを「ぽん」と呼んでいました。それが「りっぽん」⇒「りっぽ」の誕生です。かわいがられていたと思います。
弟が生まれるまでは。
弟が生まれ、大きくなるにつれて、私への愛情は薄れ、弟へ愛情を注ぐようになりました。食べるもの、やること、すべて長男が優先。
これまた典型的な「長男が大事」ってやつで。
女衆でまとめあげられた母、姉、わたし。
朝食6時。起きないと部屋に入り、布団を引っぺがされる。
夕食18時。必ず家族そろって食事をしなければならず、箸とお茶碗の持ち方、配膳の位置、音を立てて食べない、など毎日の食事はお通やより静まりかえっていました。
父の生活に合わせなければ「出てけ」で外に出される。
何度も外の犬小屋でワンコとうずくまって過ごした記憶があります。
父の自慢話もよく聞かされ、学校で一番頭が良かっただの、かけっこじゃクラスで1番だっただの、丁寧、実直さは職場1番だの、過去の栄光にすがっている父の言葉を真に受け
そんなすごい人が父親なんだから娘のわたしもできないとダメなんだと思っていました。
父には家族誰も逆らえず、テレビのチャンネル権ももちろん父。野球と相撲、時代劇とドリフしか観た記憶がありません。おかげで本能寺の変がテストに出ると点数が良かったです。
執着する父
父は弟にどっぷりと執着し、小学校入学と同時に野球チームに入れ、毎週週末は家にいることがありません。私は嬉しかったけれど、母は複雑だったようで、息子にもっと愛情をかけて過ごしたかったけど、全部父に奪われたと言っていました。
弟が小学校卒業を期に野球チームも卒団すると、いきなり父は私にこう言いました。
「おまえをサバティーニに育てる」
そこからは父の執着が私に変わり、父に連れられテニスを習いに行くことになります。テニスクラブに父娘で入会し、地域のレッスンに参加し、プライベートレッスンを受け、私に一心にお金も時間も注いでくれたのです。そして、テニス推薦をもらって地方大学に入り一人暮らしを始めることとなりました。
突然下宿先に来ては大家さんと長話をし、テニス部の同級生や先輩にまで話しかけ仲良くなったり、時には先輩を彼氏の家まで送迎するという、よくわからない行動。そりゃあ迷惑で仕方なかったです。
強くなりたい!と頑張っていましたが、なかなか試合に勝てない、緊張してイップスになってしまう自分に限界を感じ、途中からは部活も大学もさぼって遊んでばかりいました。
その間、母と姉への態度はひどかったそうです。
母との離婚
とうとう母も反抗し、姉を連れて家を飛び出し、安ホテルで1か月ほど生活を続け身を隠していました。そして裁判までして熟年離婚することになったのです。
私は大学卒業後もしばらく一人暮らしをしていたのですが、・・・もう父親なんて怖くなかったので何か言われたらいつでも出てってやると強気な態度で実家に戻ることにしました。
生活費は1円も入れず、結局、結婚するまで実家で暮らし、父娘で生活をしていました。飲み会後、父に迎えに来てもらうのは日常茶判事で。父が何か文句でも言えば、「じゃあ、出てくわ!」がわたしの常套句になっていました。
いつのまにか父が私の様子を見ながら生活していたようです。
私は実家と母のアパートを行ったりきたり、拠点2箇所を有意義に使っていた、というのが正直なところ。
人生投げやりだったので、私なんてどうなってもいいやと思って日々を過ごしていました。その後、運命の出会いがあるのですが、その話はまた別の機会で。
父の教え
こんなわたしも、結婚し、子供が生まれ、母になってみて、子供を育てていく大変さ、食事をみんなでそろって食べることの大切さ、一日を早起きから始める大切さ、家族旅行の大切さ、当時父が叱り飛ばしてでもわたしたちに教えたかった訳が今でははっきりわかります。
私も毎食、子供達に箸とお茶碗の持ち方を注意しています。いくら言っても直りませんが。
父の真実
父も老い、今では昔の話をよくするようになりました。
クラスで一番頭が良かったってホントなの?
クラスは20人もいなかったけどね!
かけっこクラスで一番だったとか?
前の二人がこけてね、3番手のお父さんが一位になれたんだ!
ほんとか嘘かわかりませんが。
トイプードルを飼い始めてから変貌しましたね。甘やかし放題の極み、
「最後の子供」だと言って、最大に甘やかしています。
父が死んでも、ぜったいに犬は引き取らないぞ。
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